知る HISTORY

信州善光寺の歴史とびんずる市について

The Histories of ZENKOJI
and The BINZURU-san Handmade Market.

知る HISTORY 善光寺の歴史と
びんずる市について
The Histories of ZENKOJI
and The BINZURU-san
Handmade Market.

01 善光寺と
びんずるさま
善光寺とびんずるさまの
歴史をご紹介
02 びんずる市
とは
びんずる市のはじまりと
コンセプトをご紹介
03 フォト
ギャラリー
過去の開催の様子を
写真でご紹介
04 ワーク
ショップ
ワークショップの
開催情報をご案内

01 善光寺とびんずるさま 善光寺とびんずるさまの歴史をご紹介

Illust zenkoji

善光寺について

信州善光寺は、一光三尊阿弥陀如来様を御本尊として、
創建以来約千四百年の長きに亘り、阿弥陀如来様との結縁の場として、
民衆の心の拠り所として深く広い信仰を得ております。

年間約600万人もの方々がこの地を訪れます。
平成十年(1998年)2月に行われた長野冬季オリンピックの開会式では、
善光寺梵鐘が世界平和の願いを込めて全世界に向けて響き渡りました。

『善光寺縁起』によれば、御本尊の一光三尊阿弥陀如来様は、インドから朝鮮半島百済国へとお渡りになり、
欽明天皇十三年(552年)、仏教伝来の折りに百済から日本へ伝えられた日本最古の仏像といわれております。
この仏像は、仏教の受容を巡っての崇仏・廃仏論争の最中、廃仏派の物部氏によって難波の堀江へと打ち捨てられました。
後に、信濃国司の従者として都に上った本田善光が信濃の国へとお連れし、はじめは今の長野県飯田市でお祀りされ、
後に皇極天皇元年(642年)現在の地に遷座いたしました。皇極天皇三年(644年)には勅願により伽藍が造営され、
本田善光の名を取って「善光寺」と名付けられました。創建以来十数回の火災に遭いましたが、
その度ごとに、民衆の如来様をお慕いする心によって復興され、護持されてまいりました。

草創期を語る史料は残念ながら善光寺には残っていません。しかし、発掘史料や史書などから、
いにしえの善光寺の姿をうかがい知ることはできます。
大正十三年と昭和二十七年には境内地から白鳳時代の川原寺様式を持つ瓦が発見され、
7世紀後半頃にはかなりの規模を持つ寺院がこの地に建立されていたことがわかってきました。
平安後期・12世紀後半に編集された『伊呂波字類抄』は、8世紀中頃に善光寺の御本尊が日本最古の霊仏として
中央にも知られていたことを示す記事を伝えています。また、11世紀前半は、
京の貴族を中心に浄土信仰が盛んになった時期でもありました。
こうした浄土教の隆盛とともに、善光寺聖と呼ばれる民間僧が本尊のご分身仏を背負い、
縁起を唱導して、全国各地を遍歴しながら民衆の間に善光寺信仰を広めました。
また、信仰の拡大に伴い、ご分身仏が作られるようになりました。

鎌倉時代になると、源頼朝や北条一族は厚く善光寺を信仰し、諸堂の造営や田地の寄進を行いました。
善光寺信仰が広まるにつれ、全国各地には新善光寺が建立され、
御本尊の模刻像が多く造られました。現在の前立御本尊はこの鎌倉時代の作です。
鎌倉時代には多くの高僧の帰依も受けました。
東大寺再建の勧進聖として有名な俊乗坊重源をはじめ、浄土真宗の宗祖・親鸞聖人、
時宗の宗祖・一遍上人なども善光寺に参拝し、
ご仏徳を深く心底に感得されました。

戦国時代に入ると、善光寺平では武田信玄と上杉謙信が信濃の覇権を巡り、川中島の合戦を繰り広げました。
弘治元年(1555年)、武田信玄は御本尊様や多くの什宝、寺僧に至るまで、善光寺を組織ごと甲府に移しました。
その武田家が織田・徳川連合軍に敗れると、御本尊様は織田家、徳川家の祀るところとなり、
最後は豊臣秀吉が京都・方広寺の御本尊としてお奉りいたしました。
そして、秀吉の死の直前、如来様がその枕元に立たれ、信濃の地に戻りたい旨をお告げになり、
それによって慶長三年(1598年)、四十数年ぶりに善光寺にお帰りになられました。